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名称 チャーチル NA75 略称 弱点 背面、上面 ランダムAPCR △ 座席 1番席 M3 37.5口径75mm戦車砲、M1919A4 7.62mm機銃 (装甲貫徹力) AP / APCR → 79.4mm / 114.5mm 2番席 煙幕展開, 砲撃要請 3番席 Besa MarkI 7.92mm機銃 4番席 デサント席 5番席 デサント席 関連 歩兵戦車.IV チャーチル歩兵戦車.IV チャーチル (増加装甲付) チャーチルV CSチャーチル NA75チャーチル NA75 (増加装甲付) チャーチルAVREチャーチルAVRE (増加装甲付)チャーチル・カンガルーチャーチルARV 概要 イギリス軍の歩兵戦車。M4シャーマン中戦車の75mm砲を防盾ごと搭載したチャーチル。 装甲貫通力は6ポンド砲に劣るが、貫通時の破壊力と榴弾威力に優れており、強力な戦車に仕上がっている。 114.5mmの装甲を貫通できるT45高速徹甲弾を搭載したタイプは、ブラックプリンス登場までの英軍で最も強力と言える。 コメント チャーチル系の戦車はただでさえ天面が平らな上に速度が遅いので、色んな意味で乗りやすい。史実通り歩兵との共同戦線を張るのが基本である。 -- 名無しさん (2013-05-10 15 35 28) 名前 コメント
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チャーチルVI 重戦車 移動力 4 索敵範囲 2 燃料 50 索敵海中 1 生産資金 1200 変形 不可 防御力 対空 16 対地 43 対艦 43 搭載武器 武器名称 対司 対空 対装 対非 対艦 対潜 射程 優先 1 2 3 4 75mm砲QF 15 0 60 70 3 0 1 18 8 - - - 7.92mmMG 3 0 5 50 0 0 1 4 7 - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - VIはオードナンスQF75mm砲を搭載し、ようやく榴弾と徹甲弾を両方撃てるようになった。 やはり歩兵戦車として求められるものは持っているのだが、そもそもコンセプトが前時代的。 もっとも最前線以外で歩兵と随伴することに関しては、非常に運用に合っていたのだが。 攻撃力・優先はなんとかマシになったが、攻撃面なら同時期にウルバリン・アキリーズが 使用可能なのでそちらの方がマシ。 壁としては使えるが、砲速度と攻撃力の関係でシャーマンIIAと壁役としても差はない。 チャーチルIVより進化、チャーチルVIIに進化可能。
https://w.atwiki.jp/wadaisenryaku/pages/535.html
チャーチルVI 重戦車 移動力 4 索敵範囲 2 燃料 50 索敵海中 1 生産資金 1200 変形 不可 防御力 対空 16 対地 43 対艦 43 搭載武器 武器名称 対司 対空 対装 対非 対艦 対潜 射程 優先 1 2 3 4 75mm砲QF 15 0 60 70 3 0 1 18 8 - - - 7.92mmMG 3 0 5 50 0 0 1 4 7 - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - VIはオードナンスQF75mm砲を搭載し、ようやく榴弾と徹甲弾を両方撃てるようになった。 やはり歩兵戦車として求められるものは持っているのだが、そもそもコンセプトが前時代的。 もっとも最前線以外で歩兵と随伴することに関しては、非常に運用に合っていたのだが。 攻撃力・優先はなんとかマシになったが、攻撃面なら同時期にウルバリン・アキリーズが 使用可能なのでそちらの方がマシ。 壁としては使えるが、砲速度と攻撃力の関係でシャーマンIIAと壁役としても差はない。 チャーチルIVより進化、チャーチルVIIに進化可能。
https://w.atwiki.jp/wadaisenryaku/pages/533.html
チャーチルIV 重戦車 移動力 4 索敵範囲 2 燃料 50 索敵海中 1 生産資金 1100 変形 不可 防御力 対空 16 対地 43 対艦 43 搭載武器 武器名称 対司 対空 対装 対非 対艦 対潜 射程 優先 1 2 3 4 6pdf砲 0 0 65 0 3 0 1 16 8 - - - 7.92mmMG 3 0 5 50 0 0 1 4 7 - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - 別名 Mk.IV歩兵戦車 2ポンド砲の悪夢再び… 速度は全く出ないが、不整地走破能力は突出して高い歩兵戦車。 国威発揚のためウィンストン・チャーチルの名を冠している。 砲撃ではなかなか撃破されない防御力と、歩兵並の不整地走破性。 しかし速度が非常に遅く、文字通り歩兵並の進軍速度しかない。 遅さ故に機動戦など全くできなかったが、歩兵支援としては非常に有能だった。 歩兵戦車として求められるものは持っているのだが、そもそもコンセプトが… そして本ゲームでは移動力はマシだが、また主砲が「対装甲のみ攻撃力有り」と なっている。 でもアテにできるほど攻撃力も砲速度もない。 一応壁としては使えるが、砲速度と攻撃力の関係でシャーマンIIAとあまり 壁役としても差はない。敵によっては反撃しないことも… バレンタインXIより進化、チャーチルVIに進化可能。
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チャーチルVII 重戦車 移動力 4 索敵範囲 2 燃料 50 索敵海中 1 生産資金 1300 変形 不可 防御力 対空 25 対地 60 対艦 60 搭載武器 武器名称 対司 対空 対装 対非 対艦 対潜 射程 優先 1 2 3 4 75mm砲QF 15 0 60 70 3 0 1 18 8 - - - 7.92mmMG 3 0 5 50 0 0 1 4 7 - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - 最終形にしてようやく使い物にはなるようになった歩兵戦車Mk.IV。 VIIは車体設計が大幅に変更された後期型で、それまでの増加装甲リベット留めから 全て溶接構造となり、装甲厚も大幅上昇している。 その分重量が増加したため、速度は低下した。 このゲームではなぜか速度低下していない。(不整地走破性の高さのためか?) ようやくマトモに使える防御力となったが、相変わらず攻撃は微妙。 壁としてなら使えなくもない。 とはいえ結局このユニットに使う分の枠を、ファイアフライやアキリーズに回した方がいいのだが。 チャーチルVIから進化可能、
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チャーチルVII 重戦車 移動力 4 索敵範囲 2 燃料 50 索敵海中 1 生産資金 1300 変形 不可 防御力 対空 25 対地 60 対艦 60 搭載武器 武器名称 対司 対空 対装 対非 対艦 対潜 射程 優先 1 2 3 4 75mm砲QF 15 0 60 70 3 0 1 18 8 - - - 7.92mmMG 3 0 5 50 0 0 1 4 7 - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - 最終形にしてようやく使い物にはなるようになった歩兵戦車Mk.IV。 VIIは車体設計が大幅に変更された後期型で、それまでの増加装甲リベット留めから 全て溶接構造となり、装甲厚も大幅上昇している。 その分重量が増加したため、速度は低下した。 このゲームではなぜか速度低下していない。(不整地走破性の高さのためか?) ようやくマトモに使える防御力となったが、相変わらず攻撃は微妙。 壁としてなら使えなくもない。 とはいえ結局このユニットに使う分の枠を、ファイアフライやアキリーズに回した方がいいのだが。 チャーチルVIから進化可能、
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登録日:2019/10/31(日) 15 10 00 更新日:2023/12/27 Wed 10 25 35 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 イギリス 戦車 第二次世界大戦 紅茶で動くエンジン 英国面 軍事 チャーチル歩兵戦車は、第二次世界大戦のイギリスで開発、運用された歩兵戦車である。 当時のイギリス戦車の中では最も活躍した戦車の1つであり、名前を聞いた事がある人も多いのではないだろうか。 ◇開発経緯 この戦車の起源は「A20」という試作戦車にまで遡る。 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、イギリスは再び大規模な塹壕戦が起こると予想してそれに備えた戦車の開発をスタートさせた。 とは言っても、かつて第一次世界大戦でイギリスが開発した世界初の戦車である菱形戦車も元々は塹壕戦対策で生まれた兵器である。 20年程の戦間期を経た程度で紅茶好きな紳士達の考えは大きく変わるはずもなく、塹壕戦に適応する戦車を作るとまた菱形戦車モドキが出来上がってしまった。 実際、試作されたA20戦車は菱形戦車にそのまま砲塔を載せたような見た目でお世辞にもカッコイイとは言えない。 さすがに「なんでまた菱形戦車なんて作ってんだよ古すぎるだろ!」と苦情が内部から起こったらしく、この戦車の計画は試作を制作したところで中止となってしまった。 …はずだったが、状況がどう転ぶのか分からないのが戦争。この戦車に大きな転機が訪れる。 1940年5月に起きたダンケルク撤退戦である。 ドイツ軍に負けに負けたイギリス軍はフランスのダンケルクから大慌てで撤退する羽目になり、大量の兵器、武器を置き去りにしてしまった。 その中にはもちろん戦車も含まれており、イギリス軍は深刻な武器不足に陥ることになってしまう。 いつドイツ軍が攻勢に出てくるか分からない状況をただ見ている訳にもいかず、とにかく軍の再武装化がイギリスの急務となった。 そんな中白羽の矢がたったのが、一旦開発が中止されたA20だったのだ。 「いや古臭いとか言ってたのに結局使うのかよ」というツッコミが聞こえてきそうだが、使えようが使えまいが試作車両作れる程計画が進んでいるという事で優先される程当時は切羽詰まった状況だったのだ。 だって「槍でもいいから武器作れ!」って役人の言葉をそ の ま ま解釈して水道管とナイフでホントに槍作っちまうくらいだし。 とは言ってもさすがに元の設計のままだと役に立たないので設計に手を加えられて名称もA22へと改称。 そして計画書を見たイギリス首相のチャーチルがこの戦車を気に入って最優先で量産するよう指示。 このことからこの戦車はチャーチルと愛称を付けられた。 ◇車体構造 初期のマークIは砲塔に同じ2ポンド砲を載せ、車体には3インチ榴弾砲を装備し、とりあえずマチルダⅡのように歩兵戦車なのに榴弾撃てなくて味方の援護が出来ない!なんてことは無くなった。 後に砲塔に榴弾も撃てる75ミリ砲を装備するようになると車体の砲は撤去された。 他にも砲塔に76.2ミリ榴弾砲、車体に2ポンド砲載せたり、歩兵支援用に砲塔に95ミリ榴弾砲を搭載したりと様々なモデルが作られている。 防御力は歩兵戦車らしくかなりの重装甲で、初期のマークIで最大101ミリ、マークVIIでは152ミリとドイツ軍重戦車に迫る装甲厚を獲得している。 機動力については菱形戦車モドキ計画の頃からあんまり考慮されておらず、初期型でも25km/h、装甲や武装の強化が行われた後期型については20km/hくらいしか出せなかった。 まあ歩兵の駆け足よりちょい早いくらいのスピードが出ればそれで充分というのが歩兵戦車なので、特に問題視はされてなかったようだが。 この戦車最大の長所は人間が行ける場所にはどこにでも行けると言われた高い不整地の走破性である。 チャーチルは前後に大きくはみ出した履帯という車体構造故に段差や溝を乗り越える能力が非常に高く、スピードは低く、馬力も車体の重量からすれば決して高くなかったが、低速ギアにトルクがありかなりの急斜面でも登ることができた。 超堤能力は120センチ、超壕能力は370センチもあり不整地走破能力は突出して高く急斜面や湿地、森林といった悪路での機動力が高かった。 そしてこの時代の戦車には滅多に無かった超信地旋回が可能だったのも特徴の1つ。 ◇初陣 チャーチルは1942年8月のフランス奇襲作戦の「ディエップの戦い」に投入され、ここで初陣を飾ることになる。英国首相の名を冠する戦車、華々しい戦果を残すかと思えば 1両も還っては来ませんでした。 なんでかって?まずはこの作戦の背景から知る必要があるだろう。 ・奇襲上陸して6時間で撤退するという意味の分からない作戦目的 ・「民間人を巻き添えにする」 ・「奇襲攻撃の意味がなくなる」 ・「駆逐艦以上の大型艦艇は喪失リスクがあるので作戦に参加させない」 ・「天候不良で空挺部隊による沿岸砲の事前制圧は不可能」 等々の言いがかりレベルな理由でほとんど準備攻撃がなされなかったのだ。 オマケにギリギリまでドイツには内緒だったのに作戦決行2日前にイギリス将校がパーティで作戦内容を公言しやがったのだ。 もちろんあっという間にこの作戦はドイツ軍に知れ渡り、イギリス兵士たちは上陸したはいいが準備万端で待ち受けるドイツ軍の陸と空からの総攻撃を受ける羽目になった訳で。 なんとか生き残った兵士の1人は「石壁に卵を投げ付けるような戦い。その卵が俺たちだ」とこの作戦を酷評している。 因みに作戦内容を口外したイギリス将校は高級貴族で交友が広いと言うこれまた意味わからん理由でお咎めナシで済んだらしい。ソ連なら銃殺コース待ったナシだったろうに。 唯一救われた点と言えば、投入されたチャーチル37両の内砲撃で撃破されたのは2両のみで、とりあえず防御力の高さは証明できた点であろうか。 ◇その後 先に結論を言うと、 チャーチルはイギリス戦車の中では1、2を争う程の活躍をして見せた。 初陣こそトラウマレベルだったチャーチルだが、その後も改良を加えられながら様々な戦場に顔を出した。 拡張性も悪くなかった故にノルマンディー上陸作戦では部隊の上陸を支援する為に戦車専門家パーシー・ホバート少将指揮のもと戦闘工兵部隊が創設され、280ミリ臼砲を搭載したり、車体を流用した架橋戦車や不整地にカーペットを敷いて即席の道を作るボビン等様々な工兵車両が制作され連合軍の上陸成功に一役買うことになる。 この部隊は奇っ怪な見た目の車両ばかり揃えていたため、「ホバーツ・ファニーズ(ホバートの面白いヤツら)」「ザ・ズー(動物園)」とか呼ばれていたそうな。 この頃になると戦況は連合軍に有利となり、制空権も連合軍が掌握しドイツ軍に大規模な電撃戦を展開する余力は無くなっており、あとはドイツを追い詰めて行く追撃戦に移っていった。 その中で鈍足な歩兵戦車というジャンルは時代遅れになりつつあったが、それでもチャーチルの走破性と重装甲が重宝される場面は多く、歩兵戦車として常にイギリス兵達の傍にあり続け、時に露払いとして重要な役目を果たした。 普通の戦車なら通行不能な岩だらけの山を踏破して防衛側が予想していなかったルートから奇襲して防衛戦をつき崩す、なんてことがしばしばあったという。 また相当数がソ連にレンドリースされ、1943年1月にはスターリングラード奪回のために、第48独立親衛突破重戦車連隊に配備された21輌が実戦投入された。 操縦が楽で真っ直ぐで平らなデザインがタンクデサントと抜群の相性を誇り居住性に優れるためソ連軍での評価は高かったが、車両の名前の由来であるチャーチル英首相が反共主義者だったため、チャーチル戦車による戦果は対外的にはソ連製の別の戦車によるものとすり替えられたことが冷戦後に明らかになっている。 例えば、クルスク戦時にドイツ軍のティーガーを体当たりで撃破したとされるスクリプキン少佐率いる戦車隊の装備車両は、史実ではチャーチルであったがソ連史ではKV-1だったことにされてしまっている、等々。 やがてドイツが降伏し、第三帝国の滅亡を見届けたチャーチルは朝鮮戦争にも参加し、その後も予備戦力として現役に留まり続け最後のチャーチル歩兵戦車が退役したのは1965年のことであった。 工兵車両型のチャーチルはさらに後年まで使われ続け、その中でも架橋戦車タイプは、その任務上戦闘能力は要求されない事もあってか、1970年代までイギリス軍の装備として現役であった。 WW2のイギリスを代表する戦車の1つであると同時に合わせて5600両という数が生産されたからか今でもボービントン戦車博物館では動態保存されている。気になる人はニコニコ等で見てみよう。 履帯特有のキュルキュルカタカタ…という音が好きな人は特に。 ◇バリエーション この戦車は設計に余裕があり、非常に多くのバリエーションが制作されている。 ・Mk.I 出典 Wikimedia Commons『 File Churchill Mk I (A22) front-right 2017 Bovington.jpg 』(2023年2月13日閲覧) 6ポンド砲が間に合わず、威力不足とは分かっていながら主砲を2ポンド砲にした初期型。副砲として車体前部に3インチ榴弾砲が取り付けられた。マチルダ2にもあればがハルファヤの戦いで一方的に撃破されなかっただろうに ダンケルクから僅か半年後に試作車両が完成し、更に半年後には量産にこぎつけた。 しかしこの戦車を開発した会社は本来自動車会社で戦車は初めてで、そのためか故障が続出したという。まあ一応こいつ急造兵器だから仕方ないんだけどね。 ・Mk.II 砲塔の搭載砲を3インチ榴弾砲、車体砲を2ポンド砲と搭載位置を入れ換え、近接支援能力向上を図った型。数両が製作されたのみで採用はされなかった。 ・Mk.III 出典 Wikimedia Commons『 File A22C Churchill MkIII* -T31831- (49041494793).jpg 』(2023年2月13日閲覧) ようやく、6ポンド砲が量産開始され、6ポンド主砲と砲塔・車体前部に機関銃装備という、最初の計画に沿った型。 しかしやっぱりこの砲も榴弾を撃てない故に苦戦を強いられた。ソ連にも程貸与されている。 ・MK.IV Mk.IIIの溶接式砲塔を鋳造式にした型。武装はMk.IIIと変わらず。 因みにイギリス戦車兵も榴弾を撃てない事には悩んでいたらしく、一部の車両は主砲を北アフリカ戦線で撃破されたM4中戦車から取り外した75mm戦車砲を天地逆さまにして現地で強引に換装するという力技で解決した。 チャーチルの車体はシャーマンより大きかったので安定性が増して射程が伸びたりと突貫工事の割には結果は良好だったと言う。 75mmの貫通力は6ポンド砲より劣っていたのだが、イギリス戦車兵がどれほど榴弾を撃ちたがっていたかよくわかる話である。 ・Mk.VI 出典 Wikimedia Commons『 File A22 Churchill Mk.VI ‘T251952 D’ “Fording Height” (30337717787).jpg 』(2023年2月13日閲覧) 6ポンド砲の砲架を使い米軍の供与する砲弾を使用できるオードナンスQF75mm砲が開発され、これを搭載した型。 ここに来てようやく徹甲弾と榴弾の両方が一つの砲で使用できるようになった。 ・Mk.VII 車体設計が大幅に変更された後期型でチャーチルの決定版。 それまでの12.7mm厚の装甲板を溶接して車体を組み、内側からリベットで増加装甲を留めるという手間のかかる作り方を改め、全面的に溶接組みを取り入れた。今更かよ。 砲塔前面装甲が152mm、車体側面も95mmの一枚板に強化され、A22Fという新たなナンバーが与えられた。 しかしその分重量が増えたため、最大速度は20km/hに落ちてしまった。 ◇派生型 ・A22D 1941年9月に対戦車戦闘能力の高い大口径砲を搭載することが計画され、固定戦闘室に3インチ高射砲を搭載した駆逐戦車型。通称は「チャーチルガンキャリア」。 期待されて生まれた急造兵器であったが、42年に17ポンド砲が完成しこの新型砲を搭載した戦車の開発が決まったため、40両しか生産されず実戦投入されることも無かった。 その17ポンド砲を巡ってイギリス内でグダグダが起きるのはご存知の通り。 ・ブラックプリンス ティーガーやパンターの登場で6ポンド砲では太刀打ちできなくなり、新たに17ポンド砲を搭載して車体と履帯の幅を増した発展型で、「スーパーチャーチル」の別名もある。 チャーチルの拡張性をもってしても17ポンド砲の搭載は容易ではなく、全長はチャーチルの7.44mに対してブラックプリンスが8.81m、全幅2.74mに対して3.44mと、一回り拡大されてやっと搭載可能に。 全高は低く抑えられ2.7mであったが、重量は10トン増加して約50トンになり、それに合わせて履帯幅も広くなった。 ところが最大速度は17.7km/hと更に遅くなり、しかもこの頃には攻、防、走のバランスが取れたセンチュリオンの量産も決定した事でじゃあ鈍足なこいついらね、となり6両の試作で終わった。 この車両が不採用に終わったことで歩兵戦車というジャンルも終わりを告げたのだった。 ・チャーチル・クロコダイル チャーチルの派生型では一際異彩を放つ車両。Mk.VIIの車体機関銃をとっぱらって代わりに火炎放射器を乗せ、後ろに火炎放射用燃料を積んだ2輪トレーラーを引いている。 主砲も搭載しており普通の戦車としても使える。 トレーラータンクも非常時には車内から切り離し可能と安全対策もバッチリ。 火炎放射器の最大射程は100mを超え、この戦車のえげつない対人攻撃能力はドイツ軍を震え上がらせ、クロコダイルを投入すると投降する部隊が続出した。 同時にその残虐性からドイツ軍のクロコダイルに対する相当な恨みや憎しみを買ってしまい、擱座したりスタックして移動不能になったクロコダイルから搭乗員が引きずり出されリンチの末殺害されるという事態が多発した。 そのためイギリス軍もクロコダイルに乗るのを嫌がったという曰く付きの車両である。 我々は追記、修正する!陛下と祖国の為に! △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 欠陥品でもいじって使えるようにできたのはイギリスの工業力の優秀さゆえだなあ。 -- 名無しさん (2019-10-31 17 49 15) ↑L85「せやね」 -- 名無しさん (2019-10-31 18 21 56) よその国もネタにもならないガラクタよく作ってるのにネタになるからって虐められるイギリスさん -- 名無しさん (2019-10-31 21 20 53) デビューが大惨事過ぎてまぁよくぞここまで頑張って -- 名無しさん (2019-11-01 10 47 26) 某戦車アニメでは難敵として主人公たちの前に立ちはだかる。 -- 名無しさん (2019-11-01 18 34 24) R.U.S.E.だと何故かプロトタイプ扱いでコスト、性能、生産時間全てが酷過ぎて使い物にならんかったなあ... -- 名無しさん (2019-11-01 19 23 16) ディエップの戦いの英軍カワイソス -- 名無しさん (2019-11-03 18 44 53) ドイツの山岳陣地に山を登って現れ「敵戦車が攻めてきたので空軍の支援を要請する」「バカを言うな、そんなところに戦車が来るわけがないだろ!」なんて話もあったとか -- 名無しさん (2019-11-03 18 47 33) 現場の創意工夫に頼りっぱなしなんだよ…なんで榴弾は別にする!て思想なのやら 歩兵からしたらいやに広い車体とどこでも来れるだけの足まわりだから頼もしいんだろうな -- 名無しさん (2020-09-03 11 23 11) 名前 コメント
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ご命令のままに……チャーチル首相閣下……! ブリタニア王国首相、ウィンストン・チャーチルの私兵俺准尉 次の派遣先は………北アフリカ ウィンストン・チャーチルについてはこちらを http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB この俺はオールスターで使っていただいても全然かまいません 本編 チャーチルの犬 プロローグ(2011.6.05) 第1話 アラビアン・エドワード (2011.6.05) 第2話 私が見たブリタニア(2011.6.25) 第3話 アフリカの三将軍(2011.9.1) コメント 感想・意見・要望などを書いてくださると喜びます。 とてもおもしろいです。続き期待してます。 -- km (2011-06-06 01 41 28) ↑そう言っていただけると、非常にうれしいです! 遅筆なので、更新が遅れ気味になりますが、できるだけ早く更新できるようにします -- 作者 (2011-06-07 01 17 48) とても面白かったです、パトリシアは好きなキャラなので嬉しいです -- 名無しさん (2011-06-07 22 21 02) ↑パトリシア好きなんですか 同志よb -- 作者 (2011-06-09 07 08 35) 貴重なパトリシアルート…! -- 名無しさん (2011-07-13 23 40 23) ↑パトリシアの魅力を少しでも引き出せたらなと思います -- 作者 (2011-07-14 22 11 15) 続きはまだかな? -- 名無しさん (2011-08-12 08 34 01) ↑すいません…ちょっと行き詰ってて……8月中に少しでも投下したいと思っております -- 作者 (2011-08-13 20 39 33) 続き待ってます!頑張ってください応援してます -- 名無しさん (2011-10-09 23 02 06) ↑ありがとうございます! 書きたい短編も書き終わったので、そろそろこっちの方の更新も再開しようと思っとります -- 作者 (2011-10-10 02 37 58) そろそろ続きが来ると信じてるよ -- 名無しさん (2012-02-14 06 12 42) 続きカモン! -- 名無しさん (2012-05-20 12 42 01) 今年こそは復活するといいな -- 名無しさん (2014-01-01 04 14 57) あけおめ。更新こい! -- 名無しさん (2014-01-21 05 25 59) あけましておめでとうございます。 -- 名無しさん (2014-01-24 05 11 10) 501以外も最近活発なのでage -- 名無しさん (2015-03-06 21 45 12) 楽しみだ -- 名無しさん (2015-03-07 17 21 55) 今年こそ! -- 名無しさん (2015-04-18 15 34 56) 今年こそ! -- 名無しさん (2015-04-19 00 01 50) 今年こそ!更新頼む -- 名無しさん (2015-05-04 15 03 16) 更新を・・・更新をくれ・・・更新してくれぇぇぇ!! -- 名無しさん (2015-05-05 22 43 57) 更新求む!! -- 名無しさん (2015-05-13 19 31 04) 頼むよ〜 -- 名無しさん (2015-05-14 20 59 50) 来ないかね… -- 名無しさん (2015-05-14 21 02 16) 荒らしに執着されてるようだが気にせず。待っとるよ -- 名無しさん (2015-05-16 00 20 26) シャーリー「ゴミスレが伸びてる理由もわからないな」 -- 名無しさん (2015-06-02 02 00 46) 更新してくれ・・・たのむから・・・ -- 名無しさん (2015-09-28 23 10 33) あくしろ~ -- 名無しさん (2016-03-22 22 38 24) 名前 コメント - - -
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「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」 "Success is the ability to go from one failure to another with no loss of enthusiasm." ─ ウィンストン・チャーチル
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{{大統領 | 人名 = ウィンストン・スペンサー=チャーチル | 各国語表記 = Sir Winston Leonard Spencer-Churchill | 画像 = Churchill portrait NYP 45063.jpg | 画像サイズ = | 国名 = Template GBR? | 代数 = 第61 | 職名 = 首相 | 就任日 = 1940年5月10日 | 退任日 = 1945年7月27日 | 元首 = | 国名2 = Template GBR? | 代数2 = 第63 | 職名2 = 首相 | 就任日2 = 1951年10月26日 | 退任日2 = 1955年4月7日 | 元首2 = | 出生日 = 1874年11月30日 | 生地 = オクソン、ウッドストック | 死亡日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 没地 = | 配偶者 = | 政党 = 保守党、自由党 | サイン = Winston Spencer Churchill s signature.jpg }} Template thumbnail begin? Template thumbnail ノーベル賞受賞者? Template thumbnail end? サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。 彼の家名(ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式には「スペンサー=チャーチル」という複合姓(二重姓)である。 フランクリン・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。 2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。 生涯 出自と幼年期 チャーチルは、1874年11月30日にオックスフォードシャー州ウッドストックのブレナム宮殿に生まれた。ブレナム宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイムの戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅である。 父ランドルフ・チャーチルは第7代マールバラ公の息子で、保守党の領袖であり蔵相をつとめた政治家であった。また、母はアメリカの銀行家レナード・ジェロームの娘で、社交界の花形であったジャネット(ジェニー)である。 幼年時代に寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。彼の学校時代の成績は終始ふるわず、士官学校に入るのにすらたいへんな時間がかかった。 政界入り 1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、騎兵隊少尉に任官した。その後、軍事顧問としてキューバやインドに赴き、本国の雑誌に記事を寄せた。特にインドでの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられて評判となり、時の首相であるソールズベリー侯に面会を求められている。 1899年のボーア戦争には従軍記者として参加。ナタールで敵に捕われ、捕虜となるが脱走に成功。チャーチルの脱走はボーア戦争で敗戦続きだったイギリスにとって、久しぶりに明るいニュースとして伝えられ、チャーチルの知名度を飛躍的に高めた。その後、アフリカ軽騎兵連隊に入隊し、記者の活動を続けながら戦闘にも従事した。除隊後、これらの体験を著書として発刊し、4000ポンドの収益と名声を手に入れた。1900年、保守党から下院選挙に出馬し、初当選を果たした。 1904年、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1906年の総選挙で自由党が勝利するとその有力政治家として頭角を現し、植民地相次官、商務相、内務相を歴任した。 第一次世界大戦期 1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。しかし、敵国となったオスマン帝国(トルコ)の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)はイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。 1917年、チャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰した。チャーチルは戦争推進のために意欲的に働き、1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年、彼は植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。 1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。1924年の選挙では保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。 1929年、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣しなかった。この不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆など、著作活動に専念した。 第二次世界大戦期 1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海軍相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた(Winston is back)」と艦隊に発信している)。1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の幕僚長を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。 チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していきバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど、強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談、ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年7月におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。敗北が確定したのはポツダム会談中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった投票自体は7月5日であったが、戦争で全世界に駐留する将兵の不在者投票分の集計に手間取り、このような形になった。。 冷戦期 その後、トルーマン大統領の招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州フルトンで行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、アメリカ・ソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。 1951年の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、二度目の政権は国際問題に悩まされ、大英帝国の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。また、脳卒中の発作にも悩み、アンフェタミンを服用しなければ演説が出来ない程までに体力は低下していた。 まず選挙の年には、イランでモハンマド・モサデク首相がイギリス系の石油会社アングロ・イラニアン石油の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。植民地ケニアでは、キクユ人による抵抗運動から1952年に非常事態宣言が発令されてマウマウ戦争に発展し、イギリスは植民地政策の転換を迫られた。マレーシアでも独立の機運が高まって反英ゲリラの闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。 アトリー労働党政権とは逆に、鉄鋼や運輸分野において非国有化を行った。 1955年、チャーチルは首相職をアンソニー・イーデンに譲り、引退した。1963年にはアメリカから名誉市民権を贈られたが、チャーチルはその頃には病気で式典に出ることができなかった。その頃には頻繁に心臓発作をくり返すようになり、次第に恍惚状態になることが多くなり、一日に頭がはっきりしているのは2、3時間という有様であったという。1965年1月24日、チャーチルは病没し、平民のためとしては史上初となる国葬によって葬られた。 寸評 チャーチルは非常に英雄主義的な考えをもった政治家であり、政治や文学にその才能を発揮した。第二次世界大戦の困難な時期に彼は強い意志と楽観主義をもって憔悴したイギリス国民を激励。戦意を保ち、軍事戦略を立案し、ついにはアメリカ・ソ連と同盟しイギリスを勝利に導いた。彼はたぐいまれな軍事的知識をもち、その戦略家としての名声は卓越したものがある。しかし批判者の中には「彼の提案する壮大で無謀な作戦戦略は、しばしば現場と衝突し、混乱させた。」と主張するものもある。これは、チャーチルには幼少時からハンニバルやカエサル、ナポレオンなどの英雄に対する強い憧れがあり、それに後述する躁うつ症状が重なったことが大きく影響したとする。ナポレオンへの思い入れは深く少年時は、錫製のナポレオン時代の兵士の人形をコレクションしていた。 彼の政治キャリアは長きにわたるが、そこには幾たびかの不遇期があった。特に戦間期にはチャーチルは古い帝国主義的幻想にしがみついた時代遅れの政治家と考えられていた。また彼はマルバロー家特有の躁うつ病を患い、生涯に心臓発作を含むさまざまな病と闘った(彼は自身の躁うつ病のことを『私の中の黒い犬』と呼んでいた)。 また彼の文才とユーモアとウィットのセンスは、広く認められたものであった。彼はその政治家としてのスタートをさまざまな戦記を執筆することからはじめた。彼は下院議員に当選後も積極的に執筆活動を続け、海軍大臣として第一線で活躍した第一次世界大戦を書いた作品や自分自身の先祖ジョン・チャーチルや父ランドルフ・チャーチルを書いた伝記など多数を執筆。特に第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名であり、それらの筆業は彼にノーベル文学賞をもたらした。日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名。貴女と顔を会わせなくても良くなるなら、毒入りの紅茶を飲む方が良いと切り返して、女性議員を悔しがらせた伝えられる。 なお、彼が優秀な政治家の条件として挙げたのは「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、それを弁解する能力」である。 備考 昼寝をする事が日課であり、他人にも勧めていた。国会会期中であっても昼寝が出来る様に議事堂内にチャーチル専用のベッドが用意されていた。医学的にも適度な昼寝は心身の疲れを取りストレス解消に繋がる事が指摘されており、チャーチルが不健康であったにもかかわらず長命であったのも昼寝の効用であったとする専門家もいる。 トレードマークの葉巻は大きいサイズを好んだが、半分までしか吸わなかったという。現在でも、キューバの「ロメオ・イ・フリエタ」などの一部のブランドでは長さ178ミリ、直径18.65ミリの葉巻を「チャーチルサイズ」と呼んでいる。また葉巻はロンドンにあるダンヒルなど有名たばこ店から購入していたが、第二次世界大戦中にダンヒルの店がドイツ空軍による爆撃にあった際、直ちにマネージャーが首相官邸に「あなたの葉巻は大丈夫です」と電話をしたという。 1929年10月24日、たまたまウォール街を見学に訪れていたため、いわゆる「暗黒の木曜日」を目の当たりにした。 語録 「民主主義は最悪の政治体制だ。だがそれまであったものよりかは幾らかマシだ」 「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」 「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」 「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」 「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」 「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に」 「我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない」 「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」(あらゆる政治体制に民主制が打ち勝ってきたことを挙げて) 「人類ははじめて自分たちを絶滅させることのできる道具を手に入れた。これこそが人類の栄光と苦労のすべてが最後の到達した運命である」 「戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった」(第一次世界大戦に際して) 「お金を失うことは小さく失うことだ。名誉を失うことは大きく失うことだ。しかし、勇気を失うことは全てを失うことだ」 「私が歴史を書くのだから、歴史は私に好意的だろう」 「戦争での成功を保証できる者などいない。いるのは成功を収める権利を勝ち取った者だけだ」 「人類の戦闘において、かくも多数の人々が、かくも少数の人々によって、これほど多くの恩恵をうけたことはかつてない。」(バトル・オブ・ブリテンを振り返った時の言葉) 息子の嫁が、フィアットのジャンニ・アニェッリと不倫し、それが報道された時、「うちのボンクラ息子よりはマシな奴だよ」とジャンニ・アニェッリを評した。 「その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況がわかる」 「これは我が党の長い歴史の中で蒙った最悪の厄災だ」(ヤルタ会談直後の総選挙惨敗を受けて) 「私はイギリスが今や世界のおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」(アメリカ名誉市民権を贈られたとき) 「何もかもウンザリしちゃったよ」(臨終の際の最後の言葉) 架空の名言 チャーチルが「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない。」と発言したという事が巷間に伝わっているが、これは誤った情報であり、チャーチルがこのような発言をしたという公式文書などは存在しない事が指摘されている捏造されたチャーチル。同じイギリスの首相であるディズレーリの発言「16歳で自由党員にあらざる者は、心を持たぬ。60歳で保守党員にあらざる者は、頭を持たぬ」が上記の言葉の元となったともいう説もあるが、この「名言」には年齢の部分などにさまざまな異種があると同時に、誰が言ったかについても明確な根拠がなく、出典は不明である。ディズレーリの他にもジョージ・バーナード・ショー、アリスティード・ブリアン、ウッドロー・ウィルソン、オットー・フォン・ビスマルク、ジョルジュ・クレマンソー、フランソワ・ギゾー、バートランド・ラッセル、デイヴィッド・ロイド=ジョージといった大物の発言に擬せられたことがある[1]。 また、競馬関連の名言としてよく引き合いに出される「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」という発言も出典がなく、現在では作り話とされている。 著書 『サヴローラ』(小説) 『マラカンド野戦軍』(戦記) 『河畔の戦争』(戦記) 『ランドルフ卿』(父ランドルフの伝記) 『第二次世界大戦回想録』、(1953年ノーベル文学賞) 『第二次世界大戦』、佐藤亮一訳、全四巻、河出書房新社、(第二次世界大戦回想録を、戦争を中心にして自身が短くまとめたもの)のち河出文庫新版 『わが生涯』中村祐吉訳 角川文庫 若き日の回想録 参考文献 ロード・モーラン『チャーチル 生存の戦い』 河出書房新社 1967 主治医の日記が元 Jose Harris(柏野健三訳)『その生涯(上・中・下)』ふくろう出版、1995・97・99年 大森実 『チャーチル 不屈の戦士』 人物現代史4 講談社 1978 河合秀和 『増補版チャーチル』 中公新書 1998 ジョン・ルカーチ 『ヒトラー対チャーチル』 共同通信社, 1995 ロバート・ペイン 『チャーチル』(りぶらりあ選書・法政大学出版局) , 1993 ウィンストン・スペンサー=チャーチル(孫) 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』(りぶらりあ選書), 1994 ジョン・コルヴィル『ダウニング街日記 首相チャーチルのかたわらで』 20世紀メモリアル上下・平凡社 1990 祥伝社新書編集部編 『グレートスモーカー ― 歴史を変えた愛煙家たち』 祥伝社 2006 山田風太郎 『人間臨終図鑑Ⅲ』 徳間文庫 1987 関連項目 220px|thumb|right|群集に[[Vサインを掲げるチャーチル]] バトル・オブ・ブリテン 蒋介石 宋美齢 フランクリン・ルーズベルト ヨシフ・スターリン ピースサイン - チャーチルが始めたとされる。 日中戦争 中国国民党 ウィンストン・S・チャーチル (ミサイル駆逐艦)(アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦31番艦。フライトIIA) セカンダラバード(インドの都市、軍隊時代に赴任) 脚注 外部リンク Template Wikiquote? Template Commons? チャーチル演説集(英語) 血と労苦と涙と汗(1940年5月13日、首相就任演説。英語) The Sinews of Peace(1946年3月5日、いわゆる「鉄のカーテン」演説。英語) 鉄のカーテン演説(フルトン演説)(英語) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 06 27。